これは Twitter 老害会原理主義過激派の懐古。なにぶん13年間の記憶を思い出しながらになるから、細かい事実関係や時系列には誤りがあるかもしれない。親戚の老人が「若い頃はのう……」と零すようなものであり、あまりあてになる話ではない。
ちまちまと書いていたら、この記事1つ書くのに4か月もかかった。そして3,000字程度で済ませるつもりが1万字になった。話が長いところまで、まさしく老人の語りである。
初めて Twitter に触れてからの13年の間、人と対面で話した時間よりも、ツイートを読んだり書いたりしていた時間のほうが明らかに長い。そりゃ簡単には割り切れない気持ちもある。
Twitterとの思い出
私が最初の Twitter アカウントをつくったのは、2010年頭。
それまでも存在は耳にしつつ、「ブログですら書くことに困っているのに Twitter に何を書くんだ」なんて思っていた。それが登録に至った理由は、正月の暇つぶし程度の軽いノリだった。
すでに Twitter は流行り始めていたけど、まだ「みんながみんなアカウントを持っている」域までは達していなかった時期だと思う。
メディアによる「ツイッタードラマ」なんて触れ込みもあった TV ドラマ『素直になれなくて』の放送開始が2010年4月で、「Twitter の名前を使っているだけで Twitter とは別物じゃん」とか「こんなの Twitter じゃない」みたいなツイートがタイムラインを流れていた。まだ目新しい存在だった Twitter に対して、ワイドショーやらが一部しか切り取っていなかったり勘違いしていたりな内容を流していた。市井で「え、Twitter やってるんですかw アレですよね、なうって言うんですよねw」みたいに揶揄された記憶が薄っすらとある。
著名人が Twitter を始めると、それだけで Twitter ユーザーからその人への好感度が少し上がる、みたいな空気感があった。いまほど市民権を得ていなかったからこその、「こっち側」に来てくれたみたいな空気感だったと思う。
当時の Twitter サイドは「Twitter は SNS ではない」と言っていて[1][2]、「それはちょっと無理がある主張なんじゃないかなぁ」なんて心の中で思いつつ、でも私は Twitter のそういうところが好きだった。ひねくれ者の私に、斜めな態度の Twitter はよく合っていた。
フォローしたくなる相手を探すのがいまよりずっと簡単だった。好きなアーティストの名前で検索したり、気が合う人がやり取りしている人を見たりすれば簡単に見つかった。それは母数が小さいからであり、「いまの時点で Twitter をやっている」だけでもうある程度自分に近い人間だったからなんだと思う。体感として、同じものを好きでそれについて日常的に投稿している日本語使用者の存在は9割くらい把握できていたような規模感だった気がする。
いまとなっては裾野が広すぎて、軽い共通点では溢れるほどにユーザーが出てくる。その中には多種多様な人がいて、気が合いそうな人を探し出すのは難しい。「干し草の中から」とか「砂漠の中で」みたいな気分だ。新たにフォローするのが公式系のアカウントばかりになってからどれほど経つだろう。かつては毎日のようにやっていた、Twitter 上で新しく個の人間を認識するあの流れを、いつからかまるでやらなくなっていた。
始める前は「何を書くんだよ」なんて思っていたのに、気がつけばずっと張り付いていた。「おはよう」から「おやすみ」まで、140字も必要ないような内容のないどうでもいい超短文を投げ続け、日常を垂れ流し、フォロワーとふざけ続けた。1日500ツイートとかザラだった。何をそんなにツイートすることがあったんだろう。
一気にツイートしすぎるとしばらくできなくなるリミットがあり[3]、規制時用サブアカウントをわざわざ用意している人が何人もいた。私は規制されるほどにツイートはしなかったが、お気に入り/Favorite (現在のいいね/Like) をするのが大好きだったせいで、お気に入りできなくなる規制に数回引っかかった。起床と同時に寝ている間のタイムラインをふぁぼりながら現れるものだから、まだ何もツイートしていないのに「ダッシュさんおはよう」なんて空中リプライをされていた。
お前みたいなやつが Twitter に負担を掛けてきたんだろうと言われれば否定はできないが、当時は有料プランがなかった。金を払わせてくれってずっと思っていたよ。まだそれなりの頻度で落ちていた Twitter にクジラが出るたびに、みんなで「金払わせてくれ」と言っていた。あの頃の私たちはいまよりもっと Twitter が好きだったから、得られる特典がほぼ無のようなしょうもないものでもお金を落としたのに。
実際、愛用していたサードパーティクライアントにはお金を払っていたし、ニコニコ動画を見なくなってからも惰性で長いことプレミアム会員に入り続けていたようなのが私たちみたいな人間なんだ。あの頃の Twitter へお金を払えれば何かが違ったんだろうかって、いまの惨状を見ていると切実に思う。
私はよくライブに行っていたから、「オフ会」みたいな能動的な初対面ではなく、「え、今日同じ会場いるの?」という特に構えていない自然な流れでフォロワーとよく会った。そこから仲良くなった人たちが10年来の友人になった。学校や会社で人付き合いを避けてきた私にとって友人は Twitter 由来のみんなだけだった。
「食事は誰と食べるか」という話を実感したのはあの頃だった。気が合う人と楽しく食べるとこんなにおいしいんだと思った。なんでもないチェーン店のなんでもない定食だったけど、あれを超えるほど染みる食事を私はいまだ知らない。どんなに高い食事よりも、あの食事だけが一番忘れられない体験だった。誕生日ケーキをサプライズで出してくるなんてことをしてくれたのも、後にも先にもあの人たちだけだった。
Twitter を続けているうちに言及したいことが多くなり、使いかたに迷うようになった。「このアカウントでこの話をすべきなのか」「このアカウントとこのアカウントは統一していいんじゃないか」とかグルグル考えて、アカウントを増やしたり減らしたり増やしたり減らしたりした。当時のフォロワーは次々変わるアカウントに困惑したことだろう。
そんなことをしていたら Twitter の使いかたがよくわからなくなっていき、そのうち仕事が非常に忙しくなった。雑な言いかたをするならば、仕事にかまけて Twitter をちゃんとやっていなかった。人と会う機会も足が遠くなり、「Twitter の向こう側にいる人間」との距離が遠のき始めた。使いかたがさらによくわからなくなっていった。
使いかたがわからなくなった果てに、すべてを1つのアカウントに統合した。これが結果として非常によろしくなかった。マジでよくない。
あらゆる仕事の名義と人格も、あらゆる趣味の名義と人格も、すべてを1つのアカウントに突っ込んだということである。当時本名名義の仕事とハンドルネーム名義の仕事があって、それについて別々に扱うのを面倒に思っていた。だからぜんぶ一緒でいいやと思ったのだが、ぜんぜんよくない。
なにがよくないって、Twitter で感情の発露がまるでできなくなっていった。ちょっとした愚痴も言いづらいし、繁忙期にちょっと息抜きでやったゲームの感想とかも言いづらい。
仕事がまったく関係ない私生活でイラついたり落ち込んだりすることがあっても、「これあの仕事のことかな」とか「これ○○さんのことじゃない?」とか邪推されるんじゃないかと怖くて何も言えなくなった。自分のイメージが下がるだけならいいけど、お世話になっている他人へ巻き込み事故するのは避けたかった。
誤解されないようにめちゃくちゃ細かく経緯を仔細までしっかりぜんぶ生々しく書いて愚痴ればいいじゃんと思うかもしれないけど、めちゃくちゃ細かく経緯を仔細までしっかりぜんぶ生々しく書いて愚痴りたいわけじゃなくない? 漠然と「うわ~~~!」って言いたかっただけなんだよな。いまとなってはもうそういう欲求もなくなっちゃったけどさ。
自然な喜怒哀楽をあまり出さなくなっていって、超短文でふざけることもなくなっていって、Twitter の使いかたがさらによくわからなくなっていった。いつからか「1ツイート完結で完成しているツイート」みたいなものを無意識に志向していた。見るものも「人間」というより「情報」という感じになっていった。
元来「いまどうしてる?」との問いに答えて投稿するサービスであることを思えば、だいぶ逸脱したものだ。そんな形を数年続けてその傾向がどんどん強まった成れの果てが、いまの私のアカウントだ。
Twitterクライアントとの思い出
Twitter を始めた頃、私はまだガラケー持ちだった。ガラケーからずっと使い続けているサービスなんてなかなかない。そう考えてみると、経った時間の長さに驚く。
ガラケーから Twitter 公式を使うのは快適とは言いがたかったから、まず最初に使ったサードパーティクライアントが「モバツイ」だったかな。割とすぐに「Movatter」に移った気がする。しばらく使い続けて、「yubitter」の評判を見かけて試したらすごく快適で使うようになった。どう快適だったかはもう覚えてないけど、痒い所に手が届くような感覚だった記憶だ。
タイムラインの更新に割り当てられたショートカットキーを延々とポチポチ押して更新しては読み、更新しては読みを繰り返していた。小さい画面でよくやったものだ。
Androidに移って選んだのは「twicca」。非常に使いやすい名作だった。必要な機能がちゃんとあり、あったら便利なプラス機能があり、それらがシンプルの中に納まっていた。その納まり具合が美しかった。
カラーラベルって機能があって、アカウントを色で分類できるやつでね。「必ず読みたいアカウントは赤」「このジャンルを好きな人は緑」とかで分けた。すると出先で見るときにすごく楽だった。パーッと流し見して「お、赤いツイートがあるな」って止めてちゃんと読む、とか。スマートフォンの画面サイズで複数カラムを流すのは無謀だから、カラーラベルは非常に有用だった。
PCのクライアントでまず選んだのは「Saezuri」。まだ小さい1つのモニタを使っていたから、Saezuri くらいの横幅がちょうどよかった。画面の左端に常駐させていた。
クライアントの多くにはタイムラインを自動で定期的に取得して流してくれる機能があったんだけど、途中から Twitter API に「User Streams API」というスーパー画期的なものが導入された。Saezuri もこれに対応した。
非常にいい体験で感動したものだ。いまでは TweetDeck[4]でのみ見られる挙動だが、当時はほぼリアルタイムな「流れるタイムライン」を一般のサードパーティクライアントが実装できた。いい時代だった。
複数モニタを使うようになると「Janetter」を使い始めた。同じく User Streams API に対応していた Janetter は多機能で設定項目が細かく拡張性が高かった。中身の JavaScript を自分でいじったりもした。印象深いのはユーザー作成のテーマやプラグインを読み込めるようになっていたところだ。カラーラベル機能を追加するものなどいろんなプラグインが作られていて、大変お世話になった。
この頃提供されていた API は本当に自由だった。多種多様なサードパーティアプリが展開されていた。そこが Twitter の好きなところでもあった。
こっそり投稿したりタイムラインを見たりできる「ラーメン大陸」。Google Chrome のアドレスバーからツイートできる拡張機能「さらそば岬」。某大手検索サイト風の見た目で偽装する「BossKitter」なんてものまであった。私は外出時用ノート PC からは「Silver Bird」という拡張機能をよく使っていた。
そんな環境も永遠には続かず、Twitter によるサードパーティへの締め付けが始まった。2012年にツイートの表示スタイルが制限され、アプリごとのユーザー数の上限は10万人までに制限[5]。2018年には User Streams API が廃止された[6][7]。User Streams API のなくなった Twitter を触りながら、「ハイボールのウイスキー抜きみたいだな」なんて思ったものだ。Twitter 側の事情を理解できる部分もあったけど、悲しいものだった。
なかなか粘った Janetter も度重なる締め付けでまともに動かなくなってしまった。それからは Twitter が買収して公式となっていた「TweetDeck」を使うようになった。
そんな私の使っていた TweetDeck もいまや「旧 TweetDeck」であり、その旧 TweetDeck はイーロン・マスク体制下で廃された。ついこの前のことだ。「新 TweetDeck」は存在するのだが、どうやらこれもあと30日後には Twitter Blue 限定となっているらしい[8][9]。
思えば Janetter 使用期と TweetDeck 使用期、合わせて10年間以上、「6カラム並べたTwitter クライアントを一番左のモニタに常に置き、タイムラインとリストを流して眺める」日々を続けてきたことになる。これからは左のモニタが寂しくなる。
私が Twitter を始めた頃、リツイート機能はなく、いいね (当時はお気に入り) 数はわからず、画像は投稿できず表示もされず、URL は短縮されずに文字数を圧迫し、ミュートやワードミュートもできなかった。すべてサードパーティが実装し始め、後から Twitter に導入されたものだ。Twitter の青い鳥ロゴのきっかけとなったのも「tweet」という単語に新しい意味を持たせたのもサードパーティクライアント「Twitterrific」である、なんて話まであるらしい[10][11][12]。
Twitter はサードパーティと共に歩んできたのだ。共存の道を探ってくれなかったことが悲しい。Twitter がサードパーティ開発者との関係を強引に破壊する前であれば、きちんと意図を説明した常識的な要求であれば、Twitter を愛していた開発者たちは協力したはずだ。わざわざサードパーティクライアントを入れてまで見るほど Twitter が好きだったユーザーたちも協力したはずだ。
2015年当時のジャック・ドーシー CEO は「当社とアプリ開発者との関係はいつの間にか少し複雑になってしまった。この関係をリセットし、常に学ぶ姿勢を忘れずに、人々の意見に耳を傾け、気持ちを新たに再スタートしたい」と語った[13]が、Twitter がこの言葉通りの動きを取る日は来なかった。
イーロン・マスク体制下になってからは御承知の通り、サードパーティクライアントの存在自体が突然の後出しで禁止され[14]、クライアント以外のアプリについても非常に厳しい API に移行された[15]。サードパーティアプリはまるで泥棒であるかのような扱いを受けながら根絶やしにされた。とても残念なことだ。
お金を払えば新 TweetDeck を使えるが、いまの Twitter にお金を払いたいとはどうしても思えない。かつて認証済みバッジだったものの残骸である青いチェックマークが自分のアカウントに押し付けられる事象にも耐えられない。もしも Twitter Blue に「過去の Twitter 社に対して送金できる時間超越機能」をつけてくれるのならば、よろこんで加入しよう。
私にとっての Twitter は長らく、能動的に見に行くものではなく、視線を少し左に動かすと流れているものだった。私の中の Twitter はここで終わりだ。
Twitterは高尚な場所じゃない
イーロン・マスクの言動の矛盾なんかへのツッコミは既に数多の人がやっているだろうし、そこに言及し始めると延々と広がってしまう。ここでは1つの観点についてのみ書きたい。
買収検討が報道され始めたとき、私はイーロン・マスクについて「どっかのすごくお金持ちな人」くらいにしか知らなかった。「たしかに幕府へ不満はあるけど、クビライ・カーンとかいうよく知らない人に支配されるのは不安だな」とツイートするか迷って、やめた。よく知らない人についてこういうこと言うのもよくないかなと思ったからだ。
その後イーロン・マスクは理由をつけて一度買収を拒否し、当時の Twitter サイドは契約違反として訴訟してまで買わせようとした。「やっぱお前たちの会社いらないわ」と言い出した人に無理やり買わせる構図に、そんな人が Twitter を大切にしてくれるんだろうかと不安が膨らんだ。
漠然と不安を感じているだけだった中で、「あ、これダメかも」という気持ちに傾いたのは買収完了後の以下のツイートを見たときだ。
Twitter needs to become by far the most accurate source of information about the world. That’s our mission.
— Elon Musk (@elonmusk) 2022年11月7日
「Twitter は世界に関する最も正確な情報源になる必要がある。それが私たちの使命だ。」
それが使命ではない、この人は私の好きな Twitter を保ってくれないだろうと思った。イーロン・マスクは「Twitter は人類の未来に不可欠な問題が議論されるデジタルタウンスクエアだ」と発言し[16]、いつからか Twitter は「インターネットのタウンスクエア」を名乗るようになった[17][18]。しかし少なくとも、私の知る Twitter はそんな高尚な場所ではない。
ごく普通の人々の、何も特別ではなく、特に重要でも有用でもない、なんてこともない日常の「つぶやき」を眺める場所だった。それが窓を開けて空気を取り込んでいるような気分になって、私は好きだった。
そもそも Twitter の設計は「正確な情報源」にあまりにも向いていない。ツイート単体では情報の正確性を担保できない。ツイートに含まれる情報が正確かどうか判断できるのは、そのツイートに添付されたリンクや投稿者が何者かなどの外部の情報だ。ツイートのソースを確認すべきであり、ツイート自身をソースにすべきではない。ツイート単体が情報源となれるのは「私の好きな食べものは○○!」のような投稿者自身に属するお話だけだ。
Twitter の設計は議論には向いていない。インターネット上で文字で議論するのは非常に難しい。感情的になっていないか、読んだ立場がどう捉えるか、何度も読み返す。どんな反論が来そうか想定し、ツッコミが来ないよう書き直すか、あえて話を広げる余地を残すかなんてことをよく検討する。そうしてじっくり考えてから投稿して、ようやく辛うじて建設的にいきやすくなるほどの難易度だと思っている。
Twitter は「いまどうしてる?」との問いが書かれている入力欄に対して、いまそのときの気持ちを書いて短文を気軽に投稿するサービスだ。ツイートの投稿欄は Web App において最上部のど真ん中という一等地にある。これは気軽に投稿させる設計である。
しかし、正確な情報や議論が目的ならこの設計はあまりにも向いていない。まず「いまどうしてる?」と聞くのをやめよう。ツイートの投稿欄はもっと深い階層までしまい、投稿に至るまでに手間がかかるようにすべきだ。「ツイートする」ボタンも最初からは出さず、必ず一度「プレビュー」ボタンを押さなくてはいけない流れにし、その結果を確認しないと投稿できないようにしよう。そうすればあなたたちが目指すものに近くなるだろう。
タウンスクエアな目的が語られ始めたとき「140字を過信しすぎ」と思ったが、その目的を基準に見ればという一点のみにおいては、後に Twitter Blue の特典で1万字書けるようにした施策は理にかなっている。
でももうそんなものは Twitter ではない。1万字の正確な情報をしっかりプレビューしてから慎重に投稿し、人類の未来に不可欠な問題を議論するタウンスクエア、Twitter。それは私の知っている Twitter ではない。
Twitterが現実になってしまった
ある日、つぶやかない - by youkoseki - #たよりない話 という記事を読んだ。
なんとなく感じていたことが「Twitter が怒りのプラットフォームになってしまった」と言語化されていた。概ねその通りだなぁと思った。私もいつからか「怒り」の投稿ばかりしていた。
昔も怒っている人自体はいた。そのときの怒りの対象はその人の上司であったり家族であったり、「Twitter の外」にいる人間だった。怒りの対象と同じ属性を持つ人間も Twitter に存在したのかもしれないが、公式にリツイート機能がなかったし[19]、裾野の広さもいまほどではなかったあの頃、怒りがその対象の人間たちのところまで届くようなことは稀だった。届かなければ、ぶつかって大乱闘になることもない。
リツイートのおかげで出会えた素敵なツイートもたくさんある。リツイートによって生まれた怒りや増幅された怒りも無視できないほどにある。これが語られる「リツイート機能の功罪」というやつだろう[20][21]。
いまの Twitter で怒りを避けることは困難だ。怒りは強いエネルギーを持つ。つい拡散したり言及したりしたくなってしまう。だからリツイート数が伸び、トレンドに入り、おすすめされるようになる。Twitter サイドだって別に怒りを伸ばしたかったわけではないだろう。ユーザーの反応が高まって活発になるようにチューニングしたら、自然と怒りが伸びてしまうのだろう。
「これ面白いな! これを同じく楽しんでいる人の感想が見てみたい!」と思って検索すれば、それに対してなぜか怒っている人のツイートが出てくる。話題になっているツイートを開き、うっかりリプライ欄を見てしまえば的外れなコメントが並んでいるだろう。引用ツイート一覧なんて開いてしまった日には目も当てられない。
怒りに触れないことが不可能だとは言わない。ブラウザ拡張機能、ユーザー CSS、ユーザースクリプトを駆使し、いろいろなものを非表示にしたり調整したりすればいい。うっかり見知らぬ他人の反応が視界に入らないように常に心がけて使えばいい。でもそんな工夫をしてまで使うサービスは楽しいのだろうか。そんなことをしてまで使いたいだろうか。
あの頃、私は現実がつらくて、Twitter は現実から逃れて楽しく遊べる場所だった。きっと私だけじゃない。そういう人がたくさんいたと思う。
Twitter には人が増えた。それによって便利になった部分も、楽しくなった部分もある。しかし、現実に存在するありとあらゆる人間が Twitter にも存在するようになったことで、Twitter が現実になってしまった。Twitter はもう逃げ込める先ではない。
自分の人生を生きるだけでは関わらなかったであろう人間の姿が Twitter を介して見えるようになり、わかるようになったのは人間はわかり合えないということだった。決してわかり合えない者同士が存在する。人々を繋げた Twitter が可視化したものは分断だった。その分断は想像よりも遥かに大きいと、Twitter は教えてくれた。
Twitterの次
買収後に Twitter がゴタゴタし出すと、慌てて移住先の候補を検討した。そうして検討しているうちに思い出した。以前から Twitter をやめるかずっと迷っていたんだった。そんなに迷うくらいだったのに、私は「Twitter 的なもの」をわざわざ新しく始めたいんだろうか。
Mastodon や Misskey のローカルタイムラインが活発なインスタンスを見たとき、「MMO のチャットが賑やかなギルドみたいだな」と思った。ギルド加入しないと達成できないクエストのために適当なところに入った瞬間、直前まで話していた様子の人たちが一斉に「ようこそ!」「よろ~!」とかチャットしてきたときの。あの「あ……、あ……!」って感情。あれを思い出した[22]。
そもそも私って交流を望まない人間だったわと思い出した。
MMO で場違いなギルドに入る失敗を数度してから、「特典の受け取りのためだけに存在するみんな無言のギルド」みたいなところを慎重に探すようになった。自分と自分のサブキャラクターでひとりギルドを作成したことすらある。
ユーザーによるコメントが表示できるサービスでは、すべてを非表示にしていた。動画の上を流れるコメントで一世を風靡したニコニコ動画を一番見ていた時期でさえ、常にコメントを非表示にしていた。別にみんなの反応なんてどうでもよかった。私はそういう人間だった。
そんな人間があのとき Twitter にあんなにハマって、ここまで続けることになったのは、すべてのタイミングがよかったからだ。あのタイミングのメンタルだった私が、あのタイミングの Twitter 日本語圏の雰囲気の中で始めて、あのタイミングのフォロワーに出会った。何かひとつでもずれていたら、きっとハマれなかった。
Twitter じゃなければダメだった。あの体験に再現性はない。新しい Twitter 的なものを始めたとしても、あの頃のようになれるわけじゃない。Twitter も変わってしまったけれど、私も変わってしまったんだ。
いまから公園へ駆け出して缶蹴りを始めれば、子どもの頃の気分は味わえるかもしれないが、子どもの頃に戻れるわけじゃない。給食メニューを出す居酒屋に行けば、学生時代の気分は味わえるかもしれないが、学生時代に戻れるわけじゃない。新しく Twitter 的なものを始めて頑張ってワイワイしてみれば、あの頃の気分は味わえるかもしれないが、戻れるわけじゃないんだ。それがあの頃ごっこであるという気持ちを私は心の中から排除できず、きっと夢中になれないだろう[23]。
Twitter は私にとって未知の体験だった。私みたいな人間がまた夢中になるには、まったくの新しい体験が必要なんじゃないか。写真投稿サービスに触れたことがない人にとっての Instagram、位置情報で遊んだことがない人にとっての Foursquare、音声で交流したことがない人にとっての Clubhouse、VR に触れたことがない人にとっての VRChat、のような。
インターネットを介してできる体験にあと何が残っているのか私には思いつかないが、私でも思いつくようなことはすでに頭のいい誰かがやっているだろう。いつかまた Twitter のように夢中になれるサービスに出会えたらいいなぁ。
Twitter はなんだかんだ終わらないだろう。「LBO で買収されたことによって Twitter が背負った借金[24][25][26]が払えなくて」みたいな経営要素由来で倒れる可能性がどれほどあるかは専門外の私にはわからないが、「ユーザーが少なくなって終わる」ような事態はまだまだ来ないだろう。
ユーザーの大半を構成しているのがライト層だからだ。Twitter の変化をキャッチアップできて騒いでいるのなんて全体から見ればごく一部の層でしかない。
ツイート閲覧数の制限について、Twitter は「この制限はプラットフォームを使用している人々のごく一部に影響を及ぼしており」[27]なんて声明を出した。現体制は明らかな後付けをすることがあるので信用ならないものの、かつて我々の標準装備であった User Streams API ですら廃止の際「アクティブなアプリの1%でしか使われていない」とデータが示されていた[28]。今回も「人々のごく一部」という部分については間違いではなさそうだと思う[29]。
「ごく一部」側ではないライト層は我々の想像以上に気がつかず、気にしなく、調べない。イーロン・マスクの買収も報道で「なんか金持ちが社長になったらしい」と知る程度にしか興味がない。新体制が何をしたのかなんてわかっていない。影響も感じていない。Twitter は仕様や機能の変更についてまともに周知しないからなおさらだ[30]。気がついていないから不満もない。
私にとっての Twitter はここで一区切りだけど、我々のような「ごく一部」が去っていこうが現在の覇者である Twitter に大した影響はないのだろう。
わざわざブログに書くほどのことだけ言えばいいと思うようになった。人々のブログに書くほどではない気軽な「つぶやき」を眺めるのが好きだったが、自分自身の発信についてはそれでいい。ちょっとした気持ちは自分の中にしまっておく。そのためにアナログの日記がある。
Twitter も Twitter 的なものも、たまに「ブログ書いたよ」って言いに来る程度でいいかなと思っている。先のことはわからないから、数か月後には元気にツイートしてました、なんてこともありえないわけじゃないんだけど。
見ることについては Twitter と同じくらいヘビーユーズしている RSS リーダーに集約して行く。見逃してもいい情報を流しておくのが Twitter、見逃したくない情報をしっかり確認するのが RSS リーダーという運用だったが、うまくカテゴリ分けとかして両方の役割を後者に担ってもらう。Twitter でしか発信してない公式やクリエイターさん用と、生きているかを確認したい人たち用に、思い出したときに見るための最小限なリストはつくらないといけないかもな。
私の「Twitter の次」はそんな感じ。RSS とブログと日記。Twitter を始める前に戻っただけとも言う。
いままでありがとう、Twitter。
楽しかったなぁ。
いまでもリミットの仕様は存在するっぽいが、当時に比べて上限が多くなったのか少なくなったのかはよくわからない。たぶん多くなった? ちゃんと調べればわかりそう。あの頃元気いっぱいだった面々もいまではすっかりおとなしくなって、私のタイムラインでは規制されるほどの人は観測できなくなった。 ↩︎
TweetDeck に自前 UI を被せるなどしている「中身が TweetDeck」なアプリを含む ↩︎
Twitter、開発者向けガイドラインとAPI変更について説明 ユーザー数制限など厳しい内容 - ITmedia NEWS ↩︎
「もはやTwitterは個人開発者など眼中にない」――クライアントアプリ「SobaCha」開発者がUser Streams廃止に思うこと - ITmedia NEWS ↩︎
16年間アップデートされ続けたサードパーティ製Twitterアプリ「Twitterrific」の開発終了が決定 - GIGAZINE ↩︎
TwitterがAPIの新価格と詳細発表、既存プランは4月29日廃止。無料版は投稿のみ・月1500件 | TechnoEdge ↩︎
Twitter、マスク氏による買収に合意 440億ドル(約5.6兆円)で非公開企業に - ITmedia NEWS ↩︎
当時のサードパーティクライアントやユーザーの手動によるリツイート (後に公式にRTが導入されてからは「非公式RT」と呼ばれるようになる) はコピー&ペーストによるある種無理やりなもので、ツイートがピュアな状態で維持されなかった。そのため現在の公式のRTほどの強い拡散力はなかった。
いまさら聞けないTwitter超入門-@IT記事も対応なう: 本音のWebサービスガイド(5) (4/5 ページ) - @IT ↩︎ユーザー自ら生み出したリツイートという行為が、いつのまに数にまかせた化け物になっているのは、やはりさびしい - in between days ↩︎
ローカルタイムラインがないインスタンスがあることは知っている。私はそういうインスタンスの1つである Fedibird の考え に比較的同意できる部分が多いなと思って、ActivityPub 用のアカウントはとりあえず そこ に置いた。 ↩︎
ワイワイすることがわるいと言っているわけではない。夢中になれる人は、それは非常に貴重なことなので、大いに楽しんでほしいと思う。 ↩︎
イーロン・マスク氏はなぜTwitterの収益化を急ぐのか (集中連載「揺れるTwitterの動きを理解する」第1回) | TechnoEdge ↩︎
「事前に告知を行えなかった理由」と「広告への影響は最小限」については怪しいけど。 ↩︎
大きな変更があってもメールも送らなければアプリ内通知すら出さない。ツイートによってわずかなお知らせが行われるが、その際に使われるアカウントは小分けにされて数多くあり (現在だとおそらく Twitter(@Twitter) の関連アカウント / Twitter から探すのが早い)、どの変更についてのお知らせがどのアカウントから出てくるのか使い分けの基準もよくわからない。イーロン・マスクがオーナーとなってからは、オーナーの個人アカウントからしか発信されていない重要情報すらある始末。 ↩︎