2021/03/17

人生の敗戦処理

新年を迎えた時点で書きたい内容は決まっていたが、諸事情でタイミングがあんまりよろしくなかったために一旦書かないことにしていた。もう3月だけど、これを2021年の書き初めブログとしよう。

人生を諦めることにした。

自分の人生に可能性を感じない。どう転んでも成功する未来が見えない。

これはね、「ネガティブ」ではなくて、状況をありのまま捉えているだけだ。

私はずっと自分の生まれ持ったものに逆らって生きてきた。物心がついたときにはすでに疲れ切っていた。どうしてだろう、「はぁ、疲れたなぁ」と毎日思っていた。もうゆっくりしたかった。

そんな自分を変えたかった。なんにもできない弱い自分、それが自分だと信じたくなかった。がんばれば、努力すれば、誰よりも強い自分になれるはずだと信じたかった。なんでもできる、なんにでもなれると信じたかった。元気で力強い自分になりたかった。私はすべての理不尽を解決したかった。全知全能になりたかった。

世界が大嫌いだった。学校でも、家に帰っても、どこにも居場所はなかった。自分のことを認め、肯定し、受け入れてくれる人はどこにもいないと思っていた。世界の中で、自分の価値は限りもなく矮小だった。

そんな自分に耐えられなかったから、無理やり自分に価値をつけた。それが中二病の始まり。いまここにいる自分は本当の自分じゃなくて、異世界にいた自分が本来の自分なんだ。いまここにいる自分は仮の姿で、一時的にこんな暮らしを送っているだけなんだ。そう本気で信じ込んだ。だから死なないでいられた。

大嫌いな世界の中で、勉強して、偉くなって、認めさせてやる。権力を持って、こんな世界なんてすべて壊してやる。それからめちゃくちゃ勉強した。本当にたくさん勉強した。

でも勝てなかった。教科単体では1位になれることはあっても、総合順位では一度も一番になれなかった。毎回上位争いに食い込めても、一番になれる日は来なかった。

私は自分を褒めなかった。なにをやっているんだお前はと自分を罵倒し続けた。一番じゃないと意味がなかった。95点が取れても、100点の1位がいるなら意味がなかった。私は世界を壊す力がほしいのに、こんな狭い学校の中ですら一番になれないなんて、私はそんなものじゃないはずなんだ。

勉強して、勉強して、勉強して、あるときにふとどうでもよくなった。折れた。どうせ勝てないし。意味がない。

勉強がどうでもよくなったあとは、それまで以上に生徒会活動にのめり込んだ。先生の好印象を得るためと、権力を得たいという願望由来から続けてきた生徒会役員。でもそれも「教師からのいじめ」で奪われた。

もうこの学校にはなんにもなかった。通っても意味がないとしか思えなかった。「こんな高校に通うくらいなら自分で勉強してやる」、そう啖呵を切ってやめた。それも嘘じゃない、嘘じゃないんだけど、本当の本当はただもう通う体力がなくて逃げただけだったと、私自身はよく知っている。

思えばあれから、逃げ続けた人生だった。

幾度も挑戦はした。諦めていなかった。私は何者かになりたかった。ここで勝てなかったから次はあそこ、ここでも勝てないから次はあっち。場所を変え、ジャンルを変え、なんとか勝てる道を探そうとした。向いている道は他にあるのだと自分に言い聞かせた。「これはチャンスだ!」「今度こそ行ける! 私は勝つ!」、そう何度も思った。結局ただの1つとして、私は勝てなかった。

問題だったのは場所じゃない、ジャンルじゃない。適性の問題じゃないんだ。なにもかもぜんぶ、私に続ける体力がないのがわるい。勝てるまで続ける体力がないのがわるい。たとえゴールが目前でも力尽きて動けなくなる、私の体力がないのがわるいんだ。

元気なときに気合とともに始めたことを、元気じゃなくなったときに続けられなくなる。どこへ行ってもひたすら同じ幕切れを繰り返した人生だった。別の場所で勝つための転換だと思い続けた選択の数々は、実態すべて「逃げ」だったんだ。

「努力する才能」というものがあって、それはきっと各分野ごとの才能があるかないか以上に遙かに重要なものなんだ。それがない私は、どこへ行こうとなにをしようと結局勝ち切ることができない。このことにようやく気がついたのが2020年だった。「身の程」というものを、いままでの人生で一番実感する年だった。

自分自身に見切りをつけたから、この人生は敗戦処理だ。

「人生は何度でもやり直せる」「いつからでもどこからでも、なんでもできるし、なんにでもなれる」、それはその通りだと思う。私がいまいるような場所からでも、いくらでもやり直すことはできるんだろう。

でもね、人生は何度でもやり直せるけど、いまいる場所からやり直す体力を持ち合わせているかどうかというのは別問題だ。やり直せばやり直せるでしょう。いまから最強の自分になることもできるでしょう。やればできるでしょう。当たり前だ。でも私にはその体力がないんだ。

私はずっと、自分に体力がないことを見て見ぬふりをしてきた。そんなはずはないと思っていた。やればできるはずだと信じたかった。

そのスタンスが結果として、私を追い詰めた。無理をしてさらにおかしくなった。やればできるはずだと信じているから、いつも高く飛ぼうとして踏み込んだ。ここにすべてを賭けて成功させると意気込んで、何度も何度も懲りずに持っているものすべてをベットした。

勝てなかった。失った。高く飛べずに落ちた。賭けたものは返ってこなかった。ただ心が擦り切れていくだけだった。

もっと早く、私は私自身の性質と限界を受け入れて、体力がないなりのゆっくりとした暮らしを目指して舵を切るべきだった。負けていてもいいから、低等で質素でいいから、ただ静かな暮らしを目指すべきだった。

負けを認めたくなくて、悪手を打ち続けた。あがき続けた。後戻りのできない、選択肢を狭める道を選び続けて、人生が少しずつ袋小路に追い込まれていった。

気づいたころには遅かった。いまの私には、「ただゆっくりした暮らし」を手に入れることすら遠い。もっと早く気づくべきだったんだ。

物心ついたころの自分に、手紙を書いて教えてやりたい。お前の人生は好転しない。生まれ育ちには逆らえない。高く飛ぼうとして、着地できなければ怪我をする。諦めろ。受け入れろ。身の程を知れ。

もうすべてを諦める。もうすべてがどうでもいい。

私だって勝ちたかった。勝ちたかったときは「自分に誇れる自分」が座右の銘だったのに。すべてどうでもよくなってしまった。自分が理想の自分からどんなに遠ざかろうがもはやどうでもいい。誰にどう思われようが、どこでどう言われようが、名誉も矜持もなにもかもすべてどうでもいい。

そんなものに意味はない。人生に意味はない。

意味のない人生の中で、楽しもうとすることによって楽しめることがあるだけで、すべてに意味はない。楽しいと思えることだって、どれも楽しもうとするから楽しいだけで、楽しもうとしなければ楽しくはない、欺瞞に満ちたものだ。

楽しむこととか、楽しみを得るためにがんばることもインスタントでしかなくて、意味がない人生を一時的にごまかすものでしかない。ごまかし続けて生きているだけだ。気がつかないように。我に返らないように。生きている間のどんな行動も、本質的には酒を飲んで気を紛らわすのと同じだ。

生きていることに意味はない。生きているから生きているだけだ。夢も目標も希望もなく、大切なものも人もなにもかもがない。ほしいものはあるにはあっても、「あったほうがいいなぁ」程度のささやかな気持ちだ。喉から手が出るような思いなんてなんにもない。突き動かされる情熱などどこにもない。すべてがどうでもいい。

どうせ生きているなら極力不快じゃない暮らしがしたいけど、不快を減らすためには不快なことをしなければならない。ただ呼吸をするためだけにお金が必要だ。稼がないといけない。働かなくちゃいけない。どうしてなんだろう。生きていたいわけでもなくて、ただ生きているから生きているだけなのに。

こんなゴミみたいな、なんにもない、どうでもいい人生を、意味がないということを、酒や受動的コンテンツを摂取して、自分自身をごまかし続けることを寿命までずっとしなければいけないらしい。気が遠くなる。人生ってなんなんだろう。生きるとはいったいなんなんだろう。意味がないと知っていても問いたくなる。

人生どうしてこうなっちゃったんだろう。そう問いたくなる。だけどそのセリフは意味的にはため息と同じようなものだ。自分の人生がどうしてこうなってしまったのかは、誰よりも自分自身が一番よくわかっている。

2021年の、もしかしたら今後の人生ぜんぶのスローガンは「敗戦処理」。がんばらない。無理はしない。もう痛い思いはしたくない。その結果なにも手に入らなくても、それでいい。ものも立場も極力持たずに、いつ終わってもいいように過ごそう。その中で、がんばらなくても生きていけるような日々をなんとか模索していきたい。

人生をすべて諦めたあとはどうなるのか。もし私へ興味がある酔狂な人がいるなら、その末路の観察をお楽しみください。

これが私の「隠居」。

ここからぜんぶ敗戦処理。