2022/01/02

2022「ジョーク」

なんだかんだまだ生きているらしい。生きているみたいだから書くとしようか、書き初め。

正直私が言いたいことなんて去年すべて書いてしまっていて、それ以降の自分のすべてが蛇足のように感じている。もう言いたいことがない。だから筆が重いけれど、書いているうちに書けたりするからね。

やっぱりこの日は、1年で一番空虚な、1年で一番苦手な日だな。真っ白な日だ。

無題

2021年のスローガンは「人生の敗戦処理」。

この1年、なんにもなかったな。なんにもないがあった。なんにもなくなるように意識して過ごしていたのかもしれない。

「これが最後」と思っていたものがあった。それを終わりにすることは2020年内にはもう決まっていて、2021年に入って引き際の処理をした。なにかがあったのはそこまで。それも2月には終わり、あとはひたすらなんにもない1年だった。

本当になんにもないな。何月はあれがあって、何月にはああいうことがあって、みたいなものがなにひとつない。高校中退から進学までの空白だってもうちょいなんかあったぞ。いままでの人生で一番なにもなかったってことになる。

やりたいことも、できるようになりたいことも、ほんの細やかなものしかない。もう少し快適に暮らせたほうが不快が減るなくらいの。「なにか」になるものはもうない。それがあったとしても、そもそもそのための体力もない。

昔は目指したい「前」があって、思うように前へ進めないことが苦しかった。いまはもう前がどこなのかわからない。前向きとか言われても、どこを向いたら前向きなんだろうな。

初めからなにもなかったのかもしれないと最近は思ったりする。復讐心と怒りしかなかったのに、それを自分には「なにか」があるように勘違いしていた。それが私の人生の最初だったのだと思う。怒りで進むことを「前」だと思い込んだり、その次は他人の人生を「前」に進めることを自分の人生の「前」だと思い込んだりした。

「なにか」だと信じていたものがすべてなくなってから振り返ると、そう思うんだ。もとからなにもなかったんじゃないか。だからなにもうまくいかなかったんじゃないか。

そんなことを考えながら過ごす、なにもない1年だった。そのときそのときの体力と気分でできる範囲の時間潰しをしながら、人生に意味がないことをごまかしながら、ただ漫然と365日を消費した。そんな1年だった。

この1年をどう名付けようかいろいろ考えたけど、なんにもなさすぎて思いつきようがなかった。ここで「無題」を使うことにした。これ以上ないほどになんにもなさを表現できる総括だ。

怒りも、憎悪も、生きている人間だけのものです。生きている人間になるためには、ただ息をしているだけではだめだ、と思います。

ジョン・ミンヒ 著, 酒井君二 訳『ルーンの子供たち 冬の剣 2 消えることのない血』宙出版, 2006, p.621, ISBN 4-7767-9238-9

昔から何度も読んだ大好きな小説の一節。ずっと「息をしているだけにはなりたくない」と思いながら生きてきた。でもいざその状態が近づいてくると、意外とわるいものでもないかもしれないと感じている自分がいる。

希望がなくなればなくなるほど、希望がないことを実感するほどに、飲み込むほどに染み込むほどに、心が安穏になっていく気がする。

このほうが楽だ。すごく落ち着いていて、平らで、穏やかだ。エネルギーはもうないけれど、その代わりにただ静かなものだ。

こんな状態も、こんな日々も、わるくはないんじゃないかと思うくらいには穏やかだ。もしもここから目標を持って、なにかをがんばろうとしたら、きっとこんな心境ではいられない。それは嫌だという感情も心の中にあるんだろうな。

やり直したい気持ちがないわけじゃない。後悔ばかりだ。もし戻れるとしたらどうするか、あのときああしていれば、毎日のように考える。

でもやり直したところで、叶えたい夢だとか、目標だとか、なりたい自分があるわけじゃない。私はただ楽したいだけなんだ。もっと極限まで楽な暮らしがしたいだけ。本来ならもっと楽に生きられたであろう選択肢への後悔や、人生2周目でもなければ不可能なありえない選択肢への妄想をしているだけ。

「本来」ってなんだよな。私の人生はいま生きているこれしかないのに。もっといい自分になるための「やり直し」じゃなくて、ただ楽したいだけなんだ。そこには「どうなりたいか」がない。だったらもうこのままでいいんじゃなかろうか。そう思ったりする。

このままでいい。なにもないままでいい。2021年はわるいバランスではなかった。当社比でマシだった。さすがに2022年はもう少し働かなければいけないだろうけど、これくらいの穏やかさでいられたらいいな……。

ジョーク

2022年のスローガンは「ジョーク」。去年からもはや「スローガン」と呼べるような代物ではなくなってきている気がするけど。

そんなものに意味はない。人生に意味はない。

意味のない人生の中で、楽しもうとすることによって楽しめることがあるだけで、すべてに意味はない。楽しいと思えることだって、どれも楽しもうとするから楽しいだけで、楽しもうとしなければ楽しくはない、欺瞞に満ちたものだ。

楽しむこととか、楽しみを得るためにがんばることもインスタントでしかなくて、意味がない人生を一時的にごまかすものでしかない。ごまかし続けて生きているだけだ。気がつかないように。我に返らないように。生きている間のどんな行動も、本質的には酒を飲んで気を紛らわすのと同じだ。

生きていることに意味はない。生きているから生きているだけだ。夢も目標も希望もなく、大切なものも人もなにもかもがない。ほしいものはあるにはあっても、「あったほうがいいなぁ」程度のささやかな気持ちだ。喉から手が出るような思いなんてなんにもない。突き動かされる情熱などどこにもない。すべてがどうでもいい。

Y-dash's Blog: 人生の敗戦処理, 2021

意味がない人生なんて、ジョークに過ぎないんじゃないか。この1年、そんなふうに考えていた。

人生なんてジョークなんだから、楽しければいいし、楽しそうなほうに行けばいいだけなんじゃないか。たとえ上っ面でも、欺瞞でも、どうせ意味はないんだから。ジョークなんだから。いまこの瞬間が、いま目の前が楽しければそれでいいんじゃないかって。

それが本当の「どうでもいい」じゃないかって。正しいも間違いも、役に立つも立たないも、成果の出る出ないも、意味のあるなしも、本当に楽しいのかどうかも、どうでもいい。

「実利より誇り」とか言っていた私が「実利よりいまこの瞬間目の前が楽しければいい」になってるの、順当な堕落という感じがするな。

強く生きていく方法、強く生きているように見える方法は知っているけど、生きることに意味がないのに、強く生きたところでなんの意味がある。世間一般の言う「前向き」に生きようとすれば生きられるし、「ポジティブ」に生きようとすれば生きられるよ。でもどうせ死ぬのに、そんな無理してまで生きてなんの意味があるって言うんだ。

ジョークだ、人生はジョーク。ジョークとでも笑いにしなきゃやってらんないクソみたいな人生。行動も選択もその結果も、いいもわるいも全部ジョーク。所詮ジョークなんだから、もうなんでもいいよな。

そう思いながらも、「意味があるのか」という思考は常に抜けないんだけどさ。「ただ楽しければいいや」という気持ちと、「そんな工夫までして意味があるのか」という気持ちの間で、私の頭の中はずっとループしてる。でもこれを「ジョークなんだ」とごまかせたり、ごまかせなかったり、このバランスでまだしばらく生きていけるんじゃないかって思ったりするんだ。

「生きる」ってことは、「なぜ生きるのか」への答えを先送りにし続けることなんだと思う。

無理やり書いてはみたけど、やっぱり蛇足にしかならなかったな。そりゃそうか。いまの人生そのものが蛇足みたいなものだからな。「ここからぜんぶ敗戦処理」なんて決めたあとの人生が蛇足にならないわけがないんだ。

いつまで生きられるんだろうな。